「我は新選組の医師なり」謎に包まれた新選組隊士・山崎丞の素顔に迫る

はじめに

京都木屋町三条の池田屋に宿泊していた薬屋の密告により、池田屋の浪士密会が漏洩し、新選組が御用改めに踏み込みました。

事件当夜。
薬屋は内側から錠を外して、新選組の手引きをしました。
この薬屋こそ、新選組の監察・山崎丞(やまざき すすむ)だったのです。

これは有名なエピソードですが、実際に池田屋事件で山崎丞が活躍したという記録はありません。

山崎丞は、監察(スパイ・内偵)として諜報活動に従事していたため、活動の記録に乏しいのです。

ただ、池田屋事件の発端となる枡谷の探索で成果を上げていることから、記録にないだけで池田屋事件でも功績を残していたかもしれません。

では、新選組隊士・山崎丞は、どのような人物だったのでしょうか?

謎に包まれた山崎丞の素顔に迫ります。




武士にあこがれた医者の息子

新選組が屯所を構えることになる壬生の出身といわれていますが、徳島出身で大坂の鍼医者だった薬種問屋の息子だったともいわれているので、出自ははっきりとはしていません。

ただ、医術や薬学の知識があったことは確かと見られています。

出生は1835年。
天保の生まれといわれていますが、これもはっきりとしたことはわかっていません。

 

幼少期の山崎丞には、武士にあこがれて棒術に励んでいたという逸話があります。

山崎丞は香取流棒術の使い手でした。

新選組の屯所として屋敷を提供していた八木家の次男は、後に「身体が大きい色黒の男で、あまりハキハキと口は利きませんでしたが、なかなかの美男子だった」と語っています。

新選組ではマルチに活躍していた

1864年に新選組に入隊した山崎丞は、監察として目覚ましい活躍を見せます。

新選組内部でも高く評価されていたようで、諸士取締役として隊士たちの動向調査もおこなっていました。

当時の新選組は、ほとんどが関東出身者であったため、京阪の地理に詳しい山崎丞は貴重な存在でした。

京阪地域の裕福な商人なども網羅しており、山崎丞の仲介によって幹部たちが隊の資金調達もしていたようです。

 

池田屋事件では報奨金の名簿に山崎丞の名前はありません。

ただ代わりに、池田屋事件で報奨金をもらいながら、直後に除隊となっている「篠塚岸三」という隊士がいます。

この人物が、山崎丞だったのではないかともいわれています。

また、池田屋事件に出動している隊士の日記には、山崎丞の名前が確認されていることも興味深いところです。

 

山崎丞は1865年から1866年にかけて、長州藩内に潜伏し諜報活動を行い、帰京後に副長・土方歳三とともに会津藩への報告も行っています。

長州藩内での諜報活動を前後し、山崎丞は新選組の医師としても活躍するようになります。

屯所を訪問した幕医・松本良順に西洋医術を教わったのです。

「我は新選組の医師なり!」と、山崎丞が言っていることからも、新選組の隊医としてやりがいを感じていたに違いありません。

実際に「隊士たちからとても重宝されている」と、後年の松本良順は回想しています。

新選組でマルチな活躍ぶりを見せた山崎丞は、副長助勤の地位にまで上り詰めたのでした。

日本初の水葬…山崎丞の最期

鳥羽伏見の戦いが勃発すると、旧幕府軍に組み込まれた新選組も戦闘に参加します。

山崎丞は重症を負いました。

京都市内で息を引き取ったとも、大阪まで撤退してから亡くなったともいわれています。

しかし、どうにか持ちこたえて江戸へむかう船に乗り込んだという説が濃厚です。

この富士山丸には、新選組局長・近藤勇、副長・土方歳三をはじめ、多くの新選組隊士たちも乗船していました。

隊士たちに看取られ、山崎丞は最期を迎えます。

山崎丞の遺体は布団で巻かれた上から白布でくるまれ、甲板で告別式が執り行われました。

弔辞を読み上げる近藤勇は、涙をこらえることができませんでした。

鬼の副長と言われた土方歳三でさえ、その死を惜しんだといわれています。

新選組隊士たちにより、山崎丞の遺体は海へと落とされました。

これが日本初の水葬ではないかともみられています。