太平洋戦争の名将|山口多聞

TamonYamaguchi

<出典:wikipedia

山口多聞 やまぐちたもん
(1892年~1942年)

 

1892年。

山口多聞は東京市小石川区で誕生。

幼少のころは、丸々太った風貌と食欲の旺盛さから「まんじゅう」というあだ名がつけられていました。

1905年。

開成中学に入学。

「開校以来の秀才」といわれます。

山口多聞は剣道も1級の腕前で、文武両道を体現していました。

 

1909年。

山口は、海軍兵学校に入学。

1912年に次席で卒業します。

その後、巡洋艦「筑摩」や戦艦「安芸」に乗り、1918年には第2特務艦隊司令部付として第一次世界大戦に参戦します。

 

1941年。

太平洋戦争が勃発すると第2航空戦隊司令官に着任。

どんどん出世していき、「いずれは連合艦隊司令官になるのでは?」と期待されるほどでした。

 

ミッドウェー海戦

1942年。

南雲忠一が率いる第1機動部隊が広島湾を出港。

「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻の空母が、ミッドウェー島を占領しに向かいます。

しかし、このとき。

山口多聞は漠然と不安を抱えていました。

日本軍の度重なる勝利に、軍は緊張感を失っていたのです。

 

第1機動部隊の後ろには、戦艦「大和」も控えていましたが、550kmも後方。

攻撃を受けた場合、駆けつけるまでに10時間はかかります。

これでは、第1機動部隊はほぼ丸裸で航行しているようなものでした。

 

1942年5月5日。

機動部隊にむけて「AF及びAO西部用地を攻略すべし」という暗号文が送られます。

アメリカ軍はこれを傍受。

AFとAOの場所が分からなかったので、偽電報を打ち情報を引き出します。

「ミッドウェー島で蒸留施設が故障。真水が不足している」

これに反応した日本軍は、すぐさま作戦部隊に連絡。

「AFでは真水が不足している」と。

こうして、アメリカは日本軍の攻略目標を知ることとなり、第1機動部隊に狙いを定めます。

 

1942年。

第1機動部隊はミッドウェー島飛行場施設に対する攻撃を開始。

しかし、「攻撃不十分」の報告を受けたため、予備部隊の爆弾を艦船攻撃用から陸上攻撃用に変更します。

すると、今度は偵察機から「敵空母発見」の一報が。

このときすでに、攻撃隊ほぼすべての爆弾が陸上攻撃用に付け替えられていました。

これを再び艦船攻撃用に変えるには時間がありません。

空母戦の基本は先手必勝だからです。

そこで山口多聞は爆弾を付け替えず、陸上攻撃用のまま出撃することを進言。

しかし、南雲忠一はこの案を却下。

艦船攻撃用への変更を命じます。

ようやく変更が終わった時。

アメリカ軍の爆撃機の攻撃が始まりました。

そして、攻撃機が飛び立つことなく「赤城」「加賀」「蒼龍」の空母が戦闘不能に陥りました。

 

少し離れたところには、山口多聞の乗る「飛龍」がいました。

すでに「ミッドウェー島攻略」という目標は不可能になっていました。

しかし、山口は戦闘を選びます。

「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」

この信号を発して、アメリカ海軍に挑みます。

「飛龍」から飛び立った攻撃機はアメリカ軍空母「ヨークタウン」を発見。

見事に爆発させます。

しかし、ほかの空母からの攻撃により「飛龍」の機能は停止。

山口は「総員退艦」を命じます。

このとき山口は退避せず。

沈みゆく「飛龍」とともに、命を落としました。

 

のちにアメリカ太平洋艦隊司令長官が、情報主任参謀のエドウィン・レイトンに意見を求めたところ。

エドウィンは山本五十六より優秀な指揮者として山口多聞の名を挙げたといいます。