万葉のマイホームパパ、心優しき歌人・山上憶良

<出典:wikipediaー万葉集

はじめに

五・七・五・七・七の三十一文字で表す日本古来の詩である和歌。

心地よい韻律と、制約された文字数の中で紡がれる美しい言の葉は、日本文学の最高峰と評されることもあります。

その成立は古く詳細はいまだ不明ではありますが、奈良時代の『万葉集』は7世紀後半~8世紀後半にかけて編集されたと伝えられており、それ以前にはすでに和歌のスタイルが出来ていたことが想像されます。

 

万葉集には庶民が詠んだとされる歌も収録されていますが、当時の官人たちにとって歌を詠むというのは必須の教養でした。

恋愛においても、宴席での祝辞においても、また敬意や哀悼などの心を表すためにも和歌を詠みました。

そんななか、優れた和歌を詠む「歌人」と呼ばれる人たちが登場し、その歌は千年あまりの時を超えていまなお現代の私たちに深い感銘を与え続けています。

今回は万葉歌人のひとり、「山上憶良(やまのうえのおくら)」についてご紹介しましょう。

山上憶良とは

山上憶良 やまのうえのおくら
  斉明天皇6年(660年)~ 天平5年(733年)

山上憶良の出自には諸説ありますが、第七次遣唐使として大宝2年(702年)に唐へと渡り、仏教や儒教などの学問を修めました。

帰国して後、国司や皇太子の教育係などを歴任し、神亀3年(726年)頃に筑紫守に任命されて大宰府の勤務となります。

その時期に、大宰府長官として赴任してきた大伴旅人(おおとも の たびと)と知己を得、「筑紫歌壇」という歌人グループを形成します。

憶良の歌の特徴は当時の官人としては珍しく、庶民や社会的弱者といった一般の民衆、そして兵役や重税で人々が苦しむ様子などを鋭く描いており、「社会派」とも評されています。

政府の中央だけではなく、海外留学や地方官勤務の経験などを通してありのままの社会の在り方に目を向けた、憶良ならではの歌風といえるでしょう。

子どもに向けるやさしい眼差し

歌人としての憶良の能力はそればかりではありませんでした。

今も愛唱される、子どもに対するやさしい眼差しが印象的な歌があります。

(しろがね)も  金(くがね)も玉も  何せむに

まされる宝  子に如(し)かめやも

この一首は現代人にも大きく共感を呼び起こすような名歌のひとつでしょう。

「子宝」という言葉があるように、どんな金銀財宝も子どもには及ばない、という思いが込められており、おもわず笑みがこぼれてしまいそうです。

他にもこんな歌が残っています。

憶良らは  今は罷(まか)らむ 子泣くらむ

それその母も 吾(わ)を待つらむそ

という一首は宴会を途中退席する際のお詫びに詠まれたものとされています。

家で子どもが泣いているでしょう、その母親である私の妻も夫の帰りを待っているでしょう、やむにやまれず憶良めはお先に失礼いたします、といった意味の歌です。

当時は宴会を中座するというのはとても失礼なことと考えられ、ウイットに富んだ歌で周囲を和ませるという心配りを見せています。