尾崎行雄(明治時代)

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<出典:wikipedia

尾崎行雄 おざき ゆきお (1858-1954)

 

 

1858年。

尾崎行雄は、相模国(神奈川県)で誕生。

父が三重県の役人になったため、少年時代は三重県で過ごしました。

1974年。

東京に出て慶應義塾に入学しましたが、退学。

次に工学寮(現在の東京大学工学部)に入学しましたが、ここも退学しました。

 

このころ、尾崎は政治に関する意見を新聞に投書。

これが注目され、22歳のとき福沢諭吉の推薦で新潟新聞に勤めることになります。

尾崎が入社すると、新潟新聞は県内の自由民権運動をリードする新聞になっていきました。

 

やがて東京へもどった尾崎は、大隈重信(おおくましげのぶ)と共に立憲改進党の結成にあたり、自由民権の立場から記事を書きました。

1887年。

尾崎は民権運動を進めている人々の運動に参加。

しかし、保安条例によって東京から追放されてしまいました。




議員として活躍

1890年。

第一回衆議院議員選挙が行われると、尾崎は三重県で立候補して当選。

その後、第二次世界大戦が終わる1952年まで、25回連続で当選します。

この間、文部大臣や東京市長も務めました。

 

議員に当選した尾崎。

しかし、このころ政治を動かしていたのは薩摩藩と長州藩出身の人達とその周辺の勢力でした。

1912年。

護憲運動がはじまり、「政党による憲法に基づいた政治」を目指す動きが活発になります。

尾崎は犬養毅とともに、先頭に立ってこの運動をすすめました。

 

翌年。

長州藩の勢力や陸軍の力を背景に、桂太郎内閣が議会を無視して政治を運営。

これに対し、尾崎は議会で厳しく批判します。

そして横暴な政府に反対する動きが各地に広がり、数万人の人々が議会を取り囲む事態となりました。

こうして、桂内閣は50日余りで総辞職。

尾崎は”憲政の神様”と呼ばれるようになります。

 

尾崎は普通選挙を要求する運動にも積極的に参加し、東京や大阪でのデモ行進も先頭に立って行いました。

こうした運動の結果、普通選挙法が1925年に成立し、25歳以上の男子が選挙権を持つことになりました。

 

昭和に入ると、軍部の力が強くなり大陸に侵攻をはじめます。

尾崎は軍部の力が強くなることを批判。

軍国主義抵抗を続けました。

 

第二次世界大戦後も国会議員を続けた尾崎。

なんと、91歳になっても内閣を批判する質問演説を行いました。

1953年。

総選挙ではじめて落選すると、翌年。

97歳で、その一生に幕を下ろしました。