日本初の日本語新聞、『官板バタビヤ新聞』

 

日本初の日本語新聞とはどんなものだったかご存知ですか?

そしてその目的は?

 

日本で初めての「新聞」と呼ばれた印刷物は、1862年1月1日に発行された『官板バタビヤ新聞』です。

バタビヤとは、オランダ植民地時代のインドネシアの首都ジャカルタのこと。

この新聞は、幕府の要人が独占していた海外情報を一般に公開した日本で初めての日本語新聞でした。

 

それまでも発行された新聞はありましたが、いずれも英字新聞。

『官板バタビヤ新聞』は、ジャワのオランダ総督府が幕府に贈った機関紙『Javasche Courant(ヤバッシェ・クーラント)』を江戸幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が和訳したものでした。

のちに『官板海外新聞』と改名しますが、『バタビヤ新聞』の名で通っていました。

和紙を使った木版刷りの新聞で、新聞というよりは雑誌の体裁で、一冊あたり数ページ。

23巻まで刊行されました。

 

翻訳した蕃書調所は、沢山の学者が活躍していた幕府の洋学研究教育機関でした。

発行者・万屋兵四郎(よろずやへいしろう)を中心に、杉田玄白の曾孫・杉田玄瑞(げんずい)など一流の洋学者たちが翻訳作業にあたりました。




『官板バタビヤ新聞』の目的とは?

『官板バタビヤ新聞』は、当時広がってきていた攘夷運動をしずめるために創られました。

それまで海外情報は幕府の要人が独占していたのですが、それを一般に公開し、攘夷運動を落ち着かせたいというのが幕府の狙いでした。

 

主な内容はオランダを中心にした国際ニュース。

オランダ以外にイギリス、アメリカ、フランス、中国、スペインそしてトルコ等ほぼ世界中のニュースが掲載されていました。

和訳版の発行は原本が発行されてから4ヶ月も後で、もはやニュースとは呼べないような鮮度の記事でしたが、幕末の日本人は国際情勢を知ろうと一生懸命でした。

一般の人たちにとってこの新聞は、新しい国際情勢を知るというよりも、今まで見聞きしなかった珍しいこと満載のノンフィクション雑誌を読む感覚だったかもしれません。

ちなみに、アメリカの南北戦争のニュースも、7ヶ月後に掲載されたといいます。

『バタビヤ新聞』の意義

鎖国政策によって国を閉ざし、海外情報の流入を厳しく制限していた印象のある江戸時代の日本。

しかし、近年になって「鎖国」についての見直しが進み、幕府の積極的な海外情報収集活動が明らかになってきました。

特に、ペリー来航以降、幕府は海外情報を公開し、西洋の近代科学の隆盛と技術の発展、産業の発展と国力増強などの論理の伝播を促進していたのです。

『バタビヤ新聞』は、江戸幕府が完全な鎖国を行っていたわけではないという、一つの証しでもあるのです。