第121代天皇 孝明天皇

Komei

<出典:wikipedia

第121代天皇

孝明天皇 こうめいてんのう
(1831年~1866年)

 

1831年。

孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子として誕生。

1846年に父・仁孝天皇が亡くなったため、天皇に即位することになりました。

 

このころ、国内では動乱が相次いでおり、天皇は自筆の文書を何度も公家や武家に送りました。

加えて1853年。

ペリーが黒船4隻を率いて来航します。

これに対し、江戸幕府老中の阿部正弘は諸大名や庶民にまで意見を求め、対策を考えます。

しかし、このことが人々に政治参加の意識を芽生えさせ、幕府崩壊へとつながっていきます。

一方、朝廷ではペリー来航に恐怖を感じ、神仏に国家の安泰を祈っていました。

 

1858年。

幕府はアメリカと日米修好通商条約を結ぶ決心をします。

黒船が江戸湾に入ってきて江戸城を砲撃されたら、止める術がなく、アメリカに従うほかなかったのです。

国同士の条約を結ぶためには、朝廷にお伺いを立てる必要があります。

しかし幕府は以前、民衆の意見を広く集めたことで権威が低下していました。

加えて、孝明天皇は攘夷派。

日米修好通商条約を拒みます。

天皇の許可を得られなかった幕府ですが、アメリカの圧力は増すばかり。

結局、天皇の勅許を得ずに条約を結び、孝明天皇が激怒することになります。

 

外国嫌いだった孝明天皇は、尊王攘夷派の徳川斉昭に譲位を伴う幕政改革を命じます。

しかしこの命令は、幕府を通したものではなかったため、老中・井伊直弼が激怒。

井伊直弼は徳川斉昭に「生涯にわたって外出すること」を禁じます。

そしてこれが、安政の大獄の引き金となりました。

攘夷派の孝明天皇。圧力に屈する

孝明天皇は攘夷派でした。

しかし、幕府を倒す意思はなく、むしろ協力的。

異母妹を14代将軍・徳川家茂に嫁がせて公武合体を目指しました。

また、長州藩が尊王攘夷の公家と結託して活動が活発になっていましたが、孝明天皇は長州藩を嫌悪していました。

 

1864年。

禁門の変が起き、長州藩の勢力が京都からいなくなります。

 

1865年。

諸外国の艦隊が大阪湾に入り、朝廷に条約の勅許を求めてきます。

これには孝明天皇も抗えず、通商条約の勅許をだすこととなります。

攘夷派だった孝明天皇が外国の圧力に屈したことで、攘夷思想が衰えます。

代わって生まれたのが、倒幕運動

幕府を倒して新しく強い日本を作ろうというわけです。

すると、幕府と友好的な孝明天皇は邪魔な存在に。

 

そうして1866年。

孝明天皇は36歳に亡くなります。

死因は天然痘とされていますが、倒幕派による毒殺の可能性も考えられます。