奈良時代の流れと文化・服装・食事を解説

奈良時代(710~794年)

文武天皇がなくなると、その母、元明天皇が即位して平城京を築き上げます。
平城京は中国を手本にした巨大な都で、水陸の交通の便が良く、道が碁盤の目のように整備されました。

710年。
都が平城京に移り、奈良時代の幕開けです。

8世紀初め 藤原氏の台頭

皇族・貴族の均衡がとれていた政治は、藤原氏の進出で崩れ始めます。
藤原鎌足(中臣鎌足)の子、不比等は、律令体制の確立に力を尽くし大宝律令を完成。
同時に、婚姻によって皇室と結びつき勢力を伸ばしました。

不比等が死ぬと、藤原氏がさらに力をつけ政権を握るようになったため、皇族と藤原氏の争いが頻繁におこるようになりました。
また、このころから疫病や飢饉が起こり、人々を苦しめます。

729年、長屋王の変で皇族が自害、
737年、天然痘という病気で藤原氏の主力4人が他界
740年、左遷された藤原広嗣が反乱

政治の乱れ、疫病、飢饉などの状況を打破するため、聖武天皇は仏教の力で国の安泰を図ります。

741年、国分寺建立の詔を出し、国分寺を作らせる
743年、大仏造立の詔を出し、仏教政策を推進
752年、東大寺大仏が完成

しかし、お寺や大仏を作ることで財政が悪化。
さらに苦しい状態になります。

力を手に入れた僧侶「道鏡」

財政悪化に加え、仏教を保護したことで、僧が力を持ち始めます。

藤原氏の勢力が衰えると、僧侶、道鏡(どうきょう)の権力が拡大。
766年には法王となり、朝廷内の権力を握ります。
道鏡は権力を握ると仏教優遇政策を行い、僧侶たちがさらに力をつけます。

770年。
道鏡を支援していた称徳天皇が亡くなると、ようやく道鏡は栃木に追放されました。

荒れに荒れた奈良時代。
末期は光仁天皇が政権を担います。
仏教勢力を排除し、道鏡を追放した光仁天皇。
行財政の簡素化や公民の負担軽減など、律令国家を取り戻すために尽力します。

そして、時代は平安時代へ。

 

ちなみに、8世紀はじめ、重い税に耐えられなくなった農民の逃亡があいつぎました。
田んぼが荒れ税収が減った政府は、墾田永年私財法をだして開拓した土地の永久私有を認めました。
これにより税収は増えますが、貴族や寺院が力をつけるきっかけにもなってしまいました。

奈良時代の文化

<出典;wikipedia

奈良時代の文化は、聖武天皇のときの元号”天平”にちなんで、天平文化(てんぴょうぶんか)と呼ばれています。
特色は、仏教や中国(唐)の影響が強くでていること。
東大寺などの建築物に大きく反映されているほか、日本書紀などの書物にもその様子が現れています。

この時代、日本書紀のほかに古事記という歴史書も書かれています。
古事記は日本国内向けに天皇の大切さを説いたもので、日本書紀は外国向けに作った歴史書だといわれています。

また、万葉集では優れた歌をまとめています。
万葉集のすごいところは身分の差に関係なく、歌がよければ載せるということです。
世界各地で差別がひどかったこの時代、奈良の人々は歌の前に平等だったのです。

奈良時代の服装

<出典:天平楽座

奈良時代は中国の影響を大きく受けたため、服装も中国の制度を真似て刷新。
律令に基づいて衣服令が定められ、朝服、礼服、制服が作られました。

礼服は、重儀に用いられる服で、後に即位の式のときにのみ着用。
朝服は、監視の勤務服で、コレが発展して束帯や衣冠になりました。
制服は、庶民が公事に従事する際の服で、朝服に似た黄色の服です。

【貴族の男性】
男性の服は当時高級だった絹でできていました。
また、刀や靴、しゃくなどを身につけていました。

【貴族の女性】
上は、薄い藍色の服。
その上に背子(はいし)と呼ばれるベストを重ねて着ていました。
その上からスカートのような裳をつけ、帯で留め、肩からショールをかける。
頭には飾りをつけ、扇を持って完成です。

奈良時代の食事

<出典:http://outdoor.geocities.jp/

奈良時代にはすでに牛乳も飲まれており、牛乳を煮詰めて蘇というチーズのようなものも作って食べていました。
しかし、時間も手間もかかり値段も高かったので、一部の人しか食べられませんでした。

【貴族の食事】
飯鮓、鮎の醤煮、鹿の膾(なます)、漬物、汁、栗や里芋の盛り合せ、強飯(蒸した飯)、塩、酢、酒

【庶民の食事】
玄米、雑穀ご飯、塩、汁もの、酒粕を湯で溶いた「粕湯酒」など

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