米が足りない!!太平洋戦争時の3つの節米方法!!

はじめに

太平洋戦争勃発から終戦まで、日本はすべての国民に戦争に勝つための努力を強いてきました。

若く健康な男性は、徴兵制で兵士として東南アジアなどの国に送られ、死と隣り合わせの地獄のような戦いを味わいました。

では女性や年配者は何もしなかったのかと言うとそうではありません。

この当時は兵士として戦うことを「前線」といい、国内に残った女性や年配者などを「銃後」と言いました。

「銃後」の役割は戦争に勝つために日本を支える、いわばサポーターのようなものです。

「欲しがりません勝つまでは」の精神を守り、国に従うことこそが美徳とされていました。

そんなサポーターとしての一般国民に、開戦時から一貫して推奨していたのが「節米」です。

文字通り、米を節約しましょうという意味なのですが、当時発売されていた婦人雑誌には何度も「節米」という言葉が登場し、台所を預かるお母さんたちに「節米」をするよう強く言っています。

では、具体的にどんな方法で米を節約していたのでしょうか。

「節米」の方法

節米の方法は主に3つありました。

①増量する

炊き込みご飯や混ぜご飯、雑炊や粥といった方法で、他の具材や水分でかさましして調理に使う米を節約する方法です。

炊き込みご飯や雑炊と聞くと美味しく食べることができていいじゃないかと思いますが、美味しさを求めているわけではありませんので、今では考えられないような材料で炊き込みご飯を作っています。

じゃがいも、大豆、おから、とうもろこし、あずき、さつまいも、里芋……などが使用され、ご飯のうち約半分がこういった材料でした。

②うどんやパンなどを使う

うどんやパンを食べて米を節約する方法。一日の食事のうち、一食をうどん(パン)にすればその分の米が節約できるという理屈で始まった方法でした。

この方法は戦争初期から推奨されていましたが、初期の頃はお好み焼きや蒸しパン、ホットケーキ、ミートパイ、ニョッキ、ペリメニ(ロシア風水餃子)といったおしゃれなメニューのレシピが婦人雑誌に掲載されていました。

今日の「そば飯(ソース焼きそばと一緒にご飯を炒めたチャーハンのような料理)」のような料理もありました。

主に小麦粉を使った料理を代用食にしていましたが、この当時は米よりも小麦粉の方が値段が高く、一般家庭では簡単に実践できない節米方法だったようです。

③献立を見直す

食事の内容を見直して、主食である米の量をギリギリまで減らしていく方法です。

具体的には、主食がいらないと思うくらいおかずを工夫するというもの。

さつまいもやカボチャ、じゃがいもなどの満腹感が得られる芋類を中心にすれば米は食べなくて済むという理屈ですが、これらの野菜で満腹になろうと思うとかなりの量が必要になりますので、かなり無理のある節米方法でした。

なぜこんなに米が無かったのか?

そもそも太平洋戦争当時の日本は、なぜ米を節約しなければならないほど米が無かったのでしょうか?

その理由は2つあります。

まず一つ目は「日本が慢性的な米不足だったから」です。

明治以降日本国内の米の消費量は上がっており、同じように生産量も上がっていましたが、20世紀に入った頃から国内の米の消費量が上がり、農民不足も相まって国内で収穫できる分だけでは足りなくなってきました。

本土以外の植民地から米を移入し補ってきましたが、1939年に朝鮮が干ばつに見舞われ、米の移入が出来なくなり、日本全体が米不足になり節米をすることになったのです。

二つ目の理由は「戦前、日本は空前の米ブームだった」からです。

移入米が安く手に入るということもあり、白米大好きな日本人は一日に一人三合の米を食べていました。

三人家族だと単純計算で一日九合の米が消費されますね。

「米が安いから、おかずはちょっとだけにして白米でお腹いっぱいになろう」と人々は考えていましたが、これが積もり積もって消費量が上がってしまい、節米をすることになりました。

まとめ

当時の婦人雑誌はレシピも多数掲載されていますが、現在の女性誌とは比べ物にならないほど手の込んだレシピが並んでいます。

それは「米を節約する」「でも栄養は損なわない」「士気を上げる」などの切実な事情があったからでした。

実際にこの当時の節米料理を再現してみると、難しいものが多く味もそこまで美味しくはないです。

食べることが好きな人には、とても厳しい時代だったでしょう。