意気揚々と帰ってきた天正ローマ少年使節に、過酷な運命。

<出典:wikipedia

1582年(天正10年)。

九州のキリシタン大名・大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、4人の少年がローマへ派遣されました。

その名も、天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節。

この使節団によってヨーロッパの人々は日本の存在を知りました。

また、少年使節たちは西洋の文化と文明を学び、そして日本におけるキリスト教の発展に大いに寄与しました・・・、と言いたいところですが。

帰国した彼らに待ち受けていたのは、過酷な運命でした。

使節団派遣の目的

使節団派遣は、イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案でした。

目的は2つ。

1、ローマ教皇とスペイン・ポルトガルの国王たちに日本での宣教の経済的・精神的援助を依頼すること
2、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその偉大さを語らせて、布教に役立てること

使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれました。

メインのメンバー構成は、大友宗麟の名代として伊東マンショ(主席正使)、大村純忠の名代として千々石ミゲル(正使)、中浦ジュリアン(副使)、原マルティノ(副使)という13歳から14歳の少年たち4名でした。

使節団一行は1582年、2月20日に長崎を出発。

2年半後の1584年8月10日にポルトガルの首都・リスボンに到着し、ロ―マ皇帝・教皇に謁見しました。

使節団はたいそう喜ばれ、市民権まで与えられます。

その後は様々な式典に出席、活版印刷機、西洋楽器、海図など日本ではまだ見られたことのなかった品々を携え、1590年7月21日、ヨーロッパから無事に帰国した初めての日本人として長崎に到着しました。

待ち受けていた残酷な現実

使節団は8年5ヶ月ぶりに日本に帰国。

このときキリシタンに理解のある織田信長はもうこの世にはおらず、豊臣秀吉の天下になっていました。

4人は聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、バイオリン、チェンバロ、ハープ、そしてフルートをそれぞれ演奏しました。

これを見て秀吉はたいそう喜び謁見は無事に終了しましたが、このとき秀吉はキリスト教を「邪教」と称しており日本にはキリシタン禁教令が出ていました。

さらにこの使節団をバックアップした大友宗麟・大村純忠もすでに亡くなっていました。

日本の将来を背負うように出発した使節団は、帰ってくるとまるで邪魔者扱い。

キリスト禁教令が出ている以上、そのままでは生きて行くこともでませんでした。

彼らの絶望は想像に難くありません。

時代に翻弄された4人の最後

その後、4人は別々の道を辿りました。

伊藤マンショはマカオへと渡り、そこで司祭となり日本へ戻りますが、追放され、1612年に長崎で死去。

中浦ジュリアンは弾圧を逃れて地下活動していましたが、捕らえられて長崎で穴づりによって殉教。

原マルティノも追放先のマカオで亡くなりました。

一方、千々石ミゲルはキリスト教を放棄。

理由は、ヨーロッパの奴隷制度を見てキリスト教にも不信感を抱いたためと言われています。

その後ミゲルはキリスト教を捨てた裏切り者となり、仏教徒からも異端者として扱われ、ひっそりと暮らすようになりました。