日本陸軍の創設者??幕末の天才軍師、大村益次郎の生涯。

大村 益次郎

(出典:wikipedia

多くの歴史的英雄が生まれ、日本史の中でもとくにドラマティックな幕末。

その時代においてナンバーワンと言っても過言ではない天才・大村益次郎をご存知でしょうか?

明治期の軍制を整えた「日本陸軍の創設者」とうたわれる彼ですが、その知名度はあまり高くありません。

しかし大村益次郎の天才ぶりには驚かされること間違いなし。

今回は大村益次郎の生涯と才能、さらに少し変わった人物像を見ていきましょう。




大村益次郎の生涯

1824年。

大村益次郎は、村の医師の子として現在の山口県で生まれました。

家業の医業を継ぐべく諸国をめぐって学び、その類稀なる才能をいかんなく発揮し、ついには緒方洪庵の設立した名門・適塾の塾頭にまでなります。

 

一方、ちょうど時代はペリー来航により幕府の体制が揺らいでいたころ。

各藩は蘭学の進んだ知識を持った人材を求めていました。

大村は蘭学の講師・翻訳者として宇和島藩に招かれ、藩主に伴ってさらに江戸へ赴き、蕃書調所(幕府の洋学研究所)、講武所(幕府の武芸訓練機関)にて兵学や蘭学を講義・研究します。

その後、地元長州藩の藩士に抜擢され長州へと帰国。

以後、兵法家として、長州征討での長州の勝利、戊辰戦争での新政府軍の勝利に多大な貢献をしたと言われます。

 

明治維新後には新政府の軍制改革に尽力しました。

この業績を以て益次郎は「日本陸軍の創設者」と呼ばれることもあります。

その後軍をつかさどる兵部省のトップに推挙され、就任。

しかしほどなくして、京都での視察中に刺客に襲撃され、その傷がもとで敗血症となり死亡。

享年45歳という若さでした。

 

大村益次郎の天才・変人ぶり

大村益次郎は軍事について誰かに師事して学んだ経験は一切なく、独学、それもただ書物を読んだ知識のみで戦功を上げました。

それも、敵が敗走する時期や、必要な弾薬の量までも的中させるという神懸かり的な芸当を成し遂げたこともあるとか。

兵法書で読んだ知識を頭の中で処理し、実戦に応用させるという面で、大村は人智を越えた才能を持っていたようです。

 

また、上述のように蘭学の兵法書の内容を深く理解できるくらい、大村は語学力の面でも優れていたと言われています。

講武所で蘭書の翻訳や講義をしていたころには、その仕事ぶりは日本最高水準とうたわれており、講武所の同僚からは「大村先生が来る前と後では講武所の翻訳業務が一新された」と評されるくらい、他の数多くのエリート学者の中でも抜きんでた存在であったことがうかがえます。

 

このような飛びぬけた天才大村益次郎ですが、一方でえてして天才というものは変人ぶりも持ち合わせているもの。

大村は夏の時候のあいさつとして「暑いですね」と言われると「夏だから暑いのは当たり前だ」と返したり、弟子からは学者としては一目置かれるものの、医師としては優れていないと評されるような人物だったそうです。

ちなみに、このエピソードと先のような天才的才能から、大村はアスペルガー症候群であったのではないか、と考えられることもあるそうです。

 

軍事において鬼神のごとき才覚を発揮した大村益次郎。

彼がもし現代に生きていたら、どんな活躍を見せてくれていたのでしょうか。