日本人初の女子留学生!“鹿鳴館の花”と呼ばれた大山捨松

<出典:wikipedia

大山捨松(山川咲子)は、会津藩家老・山川重固の娘です。

しかし、重固は捨松が生まれる前に亡くなったため、捨松は祖父・重秀に育てられました。

その後、日本人女性で初めての女子留学生としてアメリカで学び、その後に“鹿鳴館の貴婦人”と呼ばれるようになりました。

日本人初の女子留学生・捨松は、なぜ“鹿鳴館の貴婦人”と呼ばれるようになったのでしょうか?

会津戦争がもたらしたもの

1868年。

会津戦争で、新政府軍が若松城下にまで侵攻してきます。

会津藩は新政府軍に降伏し下北半島に移され、それによって咲子たち家族も移住を余儀なくされました。

その後、咲子は11歳で、函館のフランス人の家庭に引き取られます。

 

1871年に、明治政府が女子留学生の募集をします。

咲子の兄・浩に言われて、咲子はこれに参加することになります。

この時、咲子はまだ12歳の少女でした。

そこで咲子の母・唐衣は、「咲子を捨てたつもりで送り出すけれど、その帰りを待つ(松)」と、咲子を“捨松”と改名して、横浜港から旅立つ咲子を見送りました。

 

アメリカへ渡った捨松は、コネチカット州・ニューヘイヴンのベーコン牧師のところで生活します。

高校を卒業するとヴァッサー女子大学に入学することになり、大学卒業には看護婦免許を取り、1882年に帰国しました。

渡米してから11年。

捨松は23歳になっていました。

ヴァッサー大学での捨松の評価

大学での捨松は成績優秀で、学年学生会長にも選ばれたほどでした。

卒業生代表として、卒業式で演説も行います。

「捨松は美しく、振る舞いも優雅で、人当たりも良かった」と、当時の教授は語っています。

しかし、帰国した捨松に、当時の日本の環境は優しくありませんでした。

捨松に向けられた偏見

「アメリカで学んだことを活かして、教育に携わることをしよう!」

捨松はそう思っていましたが、文部省は捨松に仕事をくれることはありませんでした。

長くアメリカにいた捨松は日本語が上手くなく、早くから結婚することが当たり前だった当時からして、捨松が未婚であるということが偏見の対象となってしまったのです。

しかし、大山巌との出会い――結婚が、捨松の状況を一変させました。

 

帰国してから1年後。

捨松は大山巌と結婚します。

初めは薩摩藩士出身の巌との結婚は、会津戦争での遺恨で却下されていました。

しかし、ヨーロッパへの留学経験のある巌と捨松はとても気が合って、結婚することになったのです。

そして、二人は完成したばかりの鹿鳴館(ろくめいかん)で結婚式を挙げました。

 

鹿鳴館では舞踏会が行われました。

アメリカで学んだ外国語を話し、ダンスを踊る美しい捨松。

彼女の振る舞いはとても評価され、彼女は“鹿鳴館の花”と呼ばれるようになりました。

慈善活動に励む

捨松は鹿鳴館慈善会という慈善パーティーを開きました。

捨松は陸軍の中心人物として働く巌の妻として、慈善活動や奉仕活動に尽力したのです。

そして、共に渡米した津田梅子が女子英学塾(津田塾大学)の創設した際には、捨松もそれに協力しました。

 

華やかな呼び名をもつ捨松。

その裏に隠れた捨松の本質は、学びに対する真面目さだったのかもしれません。