北海道開拓の先駆者・大友亀太郎の功績

創成川のほとりでにある大友亀太郎の銅像。

小学校の教科書で紹介されていたり、社会科見学で訪れたりするので、札幌出身者にとっては馴染みあるものでしょう。

そんな創成川の大友亀太郎が「お引越し」。

創成川付近を整備するために、もともと大友亀太郎が住んでいたという東区へと移動しました。

この大友亀太郎はいったいどんな人物だったのでしょうか?

今回は、北海道開拓の先駆者・大友亀太郎の実はスゴイ功績をご紹介します。

農民・大友亀太郎が武士になったわけ

江戸時代。

天保の大飢饉によって相模国でも貧しい生活を余儀なくされている人々がたくさんいました。

下足柄郡西大友村の農家であった亀太郎も、不自由な子供時代を送っていたとされています。

そんな幼少期の経験からか、銭を貯めるよりも善行を積みたいと、亀太郎は二宮金次郎に弟子入りしました。

日がな農村の開墾に明け暮れ土木作業にも精を出し、寸暇を惜しんで勉学に励む生活を送りました。

また、この時期に「報徳仕法」という農村復興政策を身につけました。

 

あるとき二宮金次郎は北海道の開拓事業を依頼されました。

ですが、すでに高齢であり、その後すぐに亡くなってしまいました。

そのため、そのまま大友亀太郎が請け負うことになりました。

亀太郎は農民でありながらも、幕府事業に従事することになったため幕臣の身分となったのです。

ちなみに、亀太郎が蝦夷地に渡ったのは1958年のこと。

大老の井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が勃発し、鎖国と開国に揺れ動く時代でした。

大友亀太郎の開拓事業

大友亀太郎が渡道した当時、幕府による支配が行き届いていたのは、道南のごく一部のみ。

札幌は手付かずの大地で、ほかの地も先住民族のアイヌたちが生活していました。

さまざまな調査結果から、大友亀太郎は開拓地として札幌を候補にあげました。

そして、蝦夷地開拓掛という役職を箱館奉行から言い付けられ、札幌エリアの大規模な開墾事業に乗り出しました。

 

開墾事業では、創成川の掘削だけでなく、道路工事、用排水路の設備、橋の建設、住居手配、農具準備など。

様々なことに取り組んだといいます。

農民として貧しい生活を送ったことと、二宮金次郎のもとで復興事業にたずさわったことで、開拓農民たちに細やかな配慮をしていたことがうかがえます。

こうして、大規模な開拓事業をおこなっていた大友亀太郎ですが、そのあいだに箱館で蝦夷共和国が設立され、明治政府が誕生し、時代は大きく変わっていきました。

大友亀太郎の知られざる後半生

蝦夷地・札幌エリアの開拓事業は、明治政府によって引き継がれてからも、大友亀太郎が主導となって進められました。

そして大友亀太郎は、明治政府の兵部省所属という立場として給料や資金をもらうことになりました。

ところが開拓使が設置されるようになると、責任者として島義勇がやってきます。

島義勇は、見事にできた大友堀や着々と進んでいる開墾事業を目の当たりにして、大友亀太郎をスカウト。

亀太郎は、兵部省と開拓使の板挟みとなります。

兵部省の人間である大友亀太郎は、おいそれと応じることができなかったのです。

このとき、すでに目の疾患に悩まされていた大友亀太郎は、ほどなくして開拓事業を開拓使にまかせて職を辞しました。

その後、亀太郎は、若森県(茨城県)・島根県・山梨県で役人として働き、地元の小田原に戻ってからは神奈川県議会議員となって、県政に貢献しています。

 

現在、創成川付近は「創成川イースト」とよばれ、二条市場、狸小路といった観光地に挟まれていることから、いつもたくさんの人でにぎわっています。

大友亀太郎が開拓をした札幌村は、さらに移住者が増加して発展、地名などからも当時の名残りをうかがうことができます。