大久保利通(明治時代)

Ohkubo_Toshimichi_statue

<出典:wikipedia

大久保利通 おおくぼとしみち (1830-1878)

 

 

1830年。

大久保利通は、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。

3歳年上の西郷隆盛と同じ町で育ち、小さいころから兄弟のように学び遊んでいました。

1846年。

17歳になった大久保利通は、薩摩藩に仕えるようになり、島津斉彬(しまづなりあきら)に重用されます。

1858年。

斉彬が亡くなり島津久光が実権を握ると、大久保は藩の意見を
「朝廷と幕府が手を結んで幕府政治を安定させるべき」
という方向に持っていきます。

 

1863年。

薩摩藩とイギリスの戦争、薩英戦争が起きます。

イギリスの近代兵器の力に手も足も出なかった薩摩藩。

外国を打ち払うことが不可能であることを悟ります。

こうして、江戸幕府を倒すべきだと考えるようになり、薩摩藩は長州藩と同盟を結びます。

また、大久保は公家の岩倉具視(いわくらともみ)にも近づき、1867年。

ついに幕府を倒します。




日本の近代化!外国を視察しにいく

新しく明治政府ができると、大久保は薩摩藩の代表として政府に参加。

長州藩の木戸孝允(きどたかよし)とともに、版籍奉還(はんせきほうかん)を行い、土地と人民の支配権を大名から天皇に返させます。

続いて廃藩置県を行い、それぞれの県に役人を配置すると、中央集権国家を作り上げます。

 

1871年。

岩倉具視を大使とする使節団を外国に派遣することに。

大久保や木戸孝允、伊藤博文もこれに同行し、日本のこれからの方針を決めるため、海外を視察します。

この視察で、日本の遅れを知った大久保。

「産業を盛んにして、国の力を強くしなくてはいけない」
という考えを強くしました。

 

1873年。

帰国した大久保を待ち受けていたのが西郷隆盛(さいごうたかもり)でした。

武士の不満を一身に受けていた西郷は、武士の不満をそらすため、武力で朝鮮を開国させようと提案します。

しかし、海外視察で、国力増強が急務であると実感していた大久保たちはコレを拒否。

西郷は政府をやめてしまいます。

 

西郷らが政府から去った後、大久保は国内政治の中心となる内務省長官になり、政府の実権を握ります。

・地租改正により幕府の収入を安定化
・国家主導の工場設立で産業を発展させる

これらの政策で、日本を強くしていきます。

 

一方、各地では特権を失った士族が反乱。

1877年には、不満の溜まった武士を西郷がまとめ、西南戦争へと発展します。

これに対し大久保は、新政府軍の指揮を取り、西郷軍と衝突。

近代兵器の力と圧倒的な物量で勝利して、危機を乗り越えます。

 

西南戦争後。

大久保は国内の政治に力を入れますが、1878年。

東京の赤坂紀尾井坂(あかさかきおいざか)で不平士族に襲われて殺されてしまいます。