太平洋戦争の名将|堀内豊秋

堀内豊秋

<出典:wikipedia

堀内豊秋  ほりうち とよあき

 

 

1900年。

堀内豊秋は熊本県に誕生します。

青年時代は身体が弱かった堀内ですが、デンマーク式体操を自分で改良し鍛錬した結果、たくましく成長。

短距離走で日本代表選手なみの記録を出すほどになります。

 

堀内は1919年に海軍兵学校に入学し1922年に卒業。

その後、キャリアを積んでいきました。

 

1937年。

日中戦争が勃発すると、当時、堀内陸戦隊司令官として中国の厦門(あもい)に赴任。

厦門では司令部に守衛をおかず、住民が自由に出入りできるようにしていました。

そのため現地民から評判がよく、堀内が異動することを知った現地民は駐留継続になるように嘆願書を提出しました。

 

1941年。

太平洋戦争がはじまる直前に海軍で落下傘部隊の編成が決まります。

落下傘兵には頑丈で柔軟な身体が要求されます。

そこで部隊長に任命されたのが、デンマーク式体操のエキスパート堀内豊秋でした。




太平洋戦争勃発。セレベス島メナドでの戦い!

1942年1月。

日本軍は油田地帯を手に入れるため、オランダ領インドネシアの攻略を開始。

11日未明に日本陸軍がタラカン島に上陸します。

一方、日本海軍はセレベス島メナドへの進攻をはじめます。

このとき空から襲撃したのが横須賀第1特別陸戦隊。

堀内豊秋の部隊でした。

 

落下傘部隊の降下地点はカラビアン飛行場。

ここには遮断物もなく、あるのはオランダ軍のトーチカのみ。

降下中に撃たれた日本兵はいましたが、次第に日本優勢となっていきます。

 

実はこのときオランダでは本国をナチスドイツに占領されていました。

そのため、オランダ軍の戦意は低く、インドネシア人が足かせをつけられて無理やり駆り出されている状況でした。

 

1月11日9時ころにはじまった降下作戦は17時に完了。

落下傘部隊の死傷者は約60名と、少ない被害ですみました。

 

堀内豊秋のインドネシア統治

作戦を完了した堀内豊秋は、そのままインドネシアにとどまり、現地司令官として軍政をしきました。

堀内がまず行ったのが、オランダに従軍されていたインドネシア兵の解放。

解放したインドネシア人に、現地で貴重だった塩を与えて、それぞれの故郷へ返します。

これに対し、「甘い対応をしたら統制できない!」と、内部で反発の声があがります。

しかし、堀内には信念がありました。

「罰を厳しくするよりも、罪を犯させない配慮が何より大切」

こうして、解放されたインドネシア兵は帰郷。

その後、全員が笑顔で戻ってきており、その手には故郷のお土産が握られていました。

 

オランダの統治時代。

インドネシアの人々は奴隷のような扱いを受けていました。

しかし、堀内の軍政は全く違いました。

堀内は市民に自由を与えるとともに、自治を促します。

現地の人達は、堀内の温かい人柄と善政に魅せられていきます。

 

3ヶ月。

堀内豊秋がインドネシアで軍政を敷いた期間は、わずか3ヶ月でした。

しかし、堀内が異動すると知った住民たちは、別れを惜しんで道を埋め尽くすほどでした。

 

ちなみにセレベス島メナドには面白い逸話が古くからありました。

「国家が危機に瀕した時。
空から白馬に乗った獅子たちが救いに現れる」

突如、空から現れた日本軍たちに、現地人たちはこの伝説を重ねたのでしょう。

日本軍の現地人からの評判は、とても良いものでした。




連合国の復讐。戦犯裁判による処刑。

戦後。

堀内豊秋は突然B級戦犯の指名を受けます。

嫌疑は「投降したオランダ兵への暴行と虐待」

もちろんそのような事実はありません。

しかし、堀内は元部下が同じように戦犯使命を受けていることを知り、巣鴨刑務所に出頭しました。

堀内は自分が証言することで、元部下を救おうとしたのです。

 

出頭した堀内は、インドネシアのメナドに送られ、裁判にかけられます。

裁判を行ったのは、かつて日本軍によりインドネシアを追われたオランダ人3名。

そして裁判長が堀内の弁護人・井出諦一郎を脅迫します。

「堀内大佐を弁護するのはあなたのためによくない」

こうして井出は、判決日を待たずに日本に帰国させられます。

裁判を務めたオランダ人3名には、まともに裁判をするつもりがなかったのです。

 

1948年5月12日。

堀内は死刑判決を受けます。

しかし、この判決にはオランダ軍内部からも同情の声が上がり、死刑執行の際には1個中隊の儀杖兵(皇族や賓客を警護する兵)がつけられたといいます。

部下の罪をかぶり、死を受け入れた堀内へのせめてもの敬意だったのでしょう。

 

銃殺される直前。

堀内は辞世の句を残します。

神ぞ知る 罪なき罪に果つるとも
生き残るらむ 大和魂

 

時は流れ、1995年。

インドネシア独立50周年に際し、メナドの住民たちは堀内の慰霊碑を建立。

堀内の精神は、今もインドネシア人の心に生き続けています。