坪内逍遥(明治時代)

Shoyo_Tsubouchi

<出典:wikipedia

坪内逍遥 つぼうちしょうよう (1859-1935)

 

 

1859年。

坪内逍遥は、美濃国(岐阜県)の下級武士の家に生まれ、名古屋で育ちました。

母の影響で少年時代から歌舞伎好き。

また、江戸文学の本も好きで、貸本屋で借りては読みふけっていました。

 

名古屋県立英語学校を卒業した逍遥は、1876年に東京大学に入学。

政治や経済を学びます。

また、友人の影響でイギリス文学も親しむようになり、卒業すると東京専門学校(早稲田大学)の講師になりました。

 

25歳のころ。

逍遥は、『当世書生気室(とうせいしょせいかたぎ)『小説神髄』を発表。

文学を政治や道徳から切り離し、物事を自由にありのままに見つめようとする写実主義を主張しました。

 

1890年。

東京専門学校に文学科が設けられると、翌年。

逍遥は『早稲田大学』という文学雑誌を創刊しました。

この雑誌の中で逍遥と森鴎外(もりおうがい)が文学論争をしており、人々の文学への理解を深めます。




演劇の改良にも力を注いだ逍遥。

『わが邦の史劇』という本で、演劇の新しい方法を示します。

歴史的事件を劇にするときでも、人物の性格や苦しみ、悲しみなどをそのまま表すことに重点を置くべきだと考えたのです。

そして、この考えを実現したのが『桐一葉』という戯曲。

豊臣氏の没落を表したこの戯曲は、新しい時代の歌舞伎を代表する作品となりました。

 

その後、早稲田中学の教頭となった逍遥は、『国語読本』などをあらわして、教育界にも大きく貢献しました。

 

『シェークスピア全集』を完成させる

1906年。

逍遥は島村抱月(しまむらほうげつ)と協力して、文芸協会を設立。

新しい演劇運動をおこしました。

やがて、演劇研究所も設けると、俳優を養成しながらシェークスピアやイプセンの作品を公演しました。

 

1915年。

早稲田大学教授を辞めて静岡に住みはじめた逍遥は、シェークスピアの全作品の翻訳をはじめます。

これまで翻訳した作品も改良し、日本に紹介されていなかったものも全て翻訳したのです。

1928年。

翻訳したものは、『シェークスピア全集』として完成。

それを記念して早稲田大学内に演劇博物館が建てられました。