坂本龍馬一世一代のハッタリ!? 伊呂波丸事件の真実

はじめに

好きな歴史上の人物として必ず上位にランキングされる幕末の英雄、坂本龍馬。

彼の事跡のあらゆる点がドラマティックであり、創作やメディア作品でも人気のあるモチーフとして愛されています。

しかし、歴史の視点を変えると、彼と敵対していた勢力にとっては恐ろしい人物であり、龍馬は危険視されていたため、何度も命の危機にさらされます。

 

坂本龍馬は数々の苦難にも直面しました。

特に有名なのが「海援隊」の設立のとき・・・。

戦闘集団である「陸援隊」とは異なり、海援隊は今でいう会社のような営利活動を行うための組織でした。

そのため、船・装備品の拡充・スタッフの確保 のための金策に大変な苦労をしました。

しかも、初の航海に乗り出した海援隊の船が他藩の船と衝突し、沈没してしまいます。

これが世にいう「伊呂波丸事件」です。




伊呂波丸事件

「伊呂波丸」とは海援隊が大洲藩(現在の愛媛県の一部)から有償で借り受けて運用する予定だった蒸気船です。

「伊呂波」と名付けられて「稽古はじめの伊呂波丸」と龍馬が歌ったことから、海援隊にとってのチュートリアルも含めた思い入れの強い船であったことが窺われます。

ところが、海援隊の初航海で、伊呂波丸は岡山県沖で紀州藩の蒸気艦「明光丸」と衝突して激しく損傷。

最寄りの鞆の浦へと曳航途中で沈没してしまいます。

事故が起こったのは慶応三年(1856年)4月23日夜半。
伊呂波丸沈没は翌明け方の頃と伝わっています。

これは日本で初めての蒸気船同士による衝突事故であると同時に、その後の賠償に関する談判は同じく初の海難審判とされ、歴史に残る海難事故ともなったのです。

綱渡りと力技で7万両を勝ち取った

伊呂波丸事件における責任の所在は、土佐と紀州両者による長期間の話し合いにおいてもはっきりとはしませんでした。

互いの主張が食い違い、航海日誌を交換して精査したにも関わらず結論が出なかったのです。

現代の海事法と照らし合わせると、伊呂波丸側に船舶航行上の重大なルール違反があったとも指摘されています。

しかし、結果としては紀州藩側の責任者であった勘定奉行の茂田一次郎の判断により、土佐藩に賠償金を支払うことが決定します。

その額はなんと7万両。

船の代金に、龍馬が積載を主張したミニエー銃などの積荷代を加算したものです。

ところが、最新の調査では伊呂波丸からミニエー銃の痕跡はまだ発見されていません。

もしかしたら、これは龍馬一世一代のブラフだったのかもしれません。