高幡不動尊に土方歳三の銅像?多摩にいた歳さんの面影を探して・・・

高幡不動尊でカウントダウンに盛り上がる人々。

おしくらまんじゅうをしながら、ふと土方歳三の銅像があることに気が付き、

「どうしてこんなところに新選組副長・土方歳三の銅像があるのか?」と疑問を抱く参拝客もいるでしょう。

 

京王電鉄・高幡不動駅周辺は、新選組の副長として知られている、土方歳三の故郷でした。

高幡不動尊ともゆかりがあるため、土方歳三の銅像が設置されたのです。

今回は、高幡不動尊をはじめとした、土方歳三の故郷・多摩エリアで新選組副長になるまでの土方歳三あらため、歳さんの足跡を追いっていきます。

高幡不動尊は土方家の菩提寺だった

江戸時代、多摩地方は武蔵国とよばれていました。

現在では東京都ですが、当時は政治経済の中心地・江戸には含まれていません。

多摩地方は「天領」といわれる幕府の直轄地であり、比較的生活にもゆとりがある地方でもありました。

 

多摩地方では高幡不動尊が信仰されていました。

高幡不動尊は、鎌倉幕府や室町幕府の将軍からも信仰されており、新選組副長となる土方歳三の実家である土方家の菩提寺でもありました。

江戸時代には、宗門人別帳(戸籍のようなもの)というものがあり、、金剛寺の旦那として幼かった土方歳三の名前が記載されています。

この金剛寺とは高幡不動尊のことです。

勘違いされやすいところですが、この旦那とはあくまで金剛寺の信徒であることを意味します。

このように、高幡不動尊のあるエリアに生まれ育っただけでなく、菩提寺であったことから、土方歳三の銅像が設置されているようです。

京王電鉄・高幡不動エリアで過ごした青年時代

武蔵国・多摩地方で生まれ育った土方歳三。

実家は豪農でしたがずっと実家にいたわけではなく、十代後半から二十代前半にかけて、二度にわたって丁稚奉公に出ています。

しかし丁稚奉公は続きませんでした。

女性問題を起こしたこともあったといわれています。

 

その後、土方歳三は姉の嫁ぎ先である佐藤家に入り浸りました。

日野宿の本陣であった佐藤家は、農民自治を主導する地元の指導者ともいえる存在。

土方歳三は日野宿のおつかいをこなすこともあれば、実家で製造される石田散薬の行商をすることもありました。

また、行商がてら各地で剣術の修行もしています。

幼馴染の近藤勇が天然理心流の養子となって試衛館という道場を継いだことで、江戸におもむいては道場に顔を出していたともいわれています。

試衛館では新選組の仲間たちとも出会っています。

天然理心流の沖田総司、井上源三郎、そして他流の食客である、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助といった顔ぶれです。

 

あるとき、神道無念流の凄腕であった永倉新八がもたらした情報によって転機が訪れます。

上洛する徳川家茂の護衛をつとめる浪士を募集していたのです。

これに試衛館のメンバーに応募して上洛しました。

石田寺の土方家の墓に眠る

多摩モノレールから見える高幡不動周辺の景色。

東京都とは思えないほど、自然に囲まれています。

多摩モノレール・万願寺駅から住宅地を抜けると石田寺に辿り着きます。

この石田寺は高幡不動尊の末寺にあたり、土方家の墓所となっています。

ここに土方歳三の墓が設置されています。(遺骨はありません)

 

多摩地方から上洛し、京都の治安維持を目的に新選組・副長として活躍するようになってからは、その冷徹ぶりから「鬼の副長」とも怖れられました。

新選組では浪士の取り締まりばかりでなく、隊内での取り締まりにおいても容赦なく、土方歳三は残酷にも隊士たちを切腹に追い込みました。

ですが、多摩地方には「鬼の副長」になる前の、どこにでもいる薬売りの歳さんが存在していました。

彼は背負ったつづらに剣術道具をこさえて、この辺りの野山を越えていたのでしょう。

 

余談ですが、薬売りの行商人であったことから、佐倉藩の順天堂とも付き合いがありました。

新選組で治療をおこなった松本良順とは、実はこの頃に知り合っていたのではないかともいわれています。