吉野作造(大正時代)

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<出典:wikipedia

吉野作造 -よしの さくぞう- (1878-1933)

 

1878年。

吉野作造は宮城県で綿屋の子として生まれました。

仙台の高校を卒業後、東京大学に入学。

どちらもトップの成績で卒業します。

 

1906年。

大学院に進んだ吉野は、清(中国)の軍部の実力者、袁世凱(えんせいがい)の子どもの家庭教師として中国に渡ります。

吉野は中国で家庭教師をするとともに、天津政法専門学堂でも教師となりました。

 

1909年。

帰国した吉野は、東京大学で政治を教えることに!!

翌年。

ヨーロッパに留学し各国の政治の様子を調査します。

ここで、世界の流れがデモクラシー(民主主義)に傾いていて、労働者がその中心となりつつあることを学びました。

大正デモクラシーの理論的指導者となる

1916年。

吉野は雑誌『中央公論』に
「憲政の本義を説いて、その有終の美をなすの途を論ず」
という論文を発表。

普通選挙言論の自由に基づき、人々の利益と幸福を目的とした民意による政党政治が必要である」と説きました。

護憲運動で桂内閣を倒した人々はこの論文に勇気づけられ、普通選挙運動、さらに女性の選挙権獲得の運動をするようにまでなっていきます。

こうして、民主主義を求める動きはどんどん大きくなり、大正デモクラシーと呼ばれるようになります。

大正デモクラシーで吉野は、理論的な指導者として活躍しました。

 

少しして、吉野の影響を受けた東京大学の学生たちが、講演会を行ったり機関誌を出したりして民本主義を広めました。

また吉野自身も、同じ考えの学者たちと黎明会を結成。

普通選挙制の実施などを主張し、講演会などを行うようになります。

この会は、大正デモクラシー運動の中心となりました。

 

1924年。

吉野は東京大学を辞めて、朝日新聞社に入社。

しかし、入社してすぐに行った演説が問題視され、わずか4ヶ月で辞めることになります。

朝日新聞を辞め、ふたたび東京大学に戻った吉野。

明治文化の研究に力を入れ始めます。

明治文化研究会をつくり、『明治文化全集』24巻を5年かけて制作。

これは、近代史の研究の基礎を作るものとなりました。

 

やがて軍部の力が強くなっていく中で、吉野は議会政治を守ることを主張したり、大陸侵略の批判をします。

しかし、1933年。

持病が悪化すると、そのまま亡くなってしまいました。