右大将藤原道綱母。玉の輿のはずが出産前に夫の浮気発覚!!

右大将藤原道綱母

<出典:wikipedia

藤原道綱母 ふじわら の みちつな の はは
(小倉百人一首では右大将道綱母とされている)
承平6年(936年)? – 長徳元年5月2日(995年6月2日)

はじめに

右大将藤原道綱母は『蜻蛉日記』の作者です。

平安時代の日記といえば、紫式部や清少納言など、女房経験がある人が大半で、その内容も宮中での生活を中心にしたものです。

この道綱母に、その経験はありません。

彼女が書いた『蜻蛉日記』は、自らの私生活を綴ったもので、その期間は21年。

その内容は、彼女の夫・藤原兼家との結婚生活についてです。

道綱母は、兼家に望まれて結婚し、しかも玉の輿でした。

その結婚生活とは、果たしてどんなものだったのでしょうか。

道綱母という女性

道綱母は、美人で頭が良いと評判の女性でした。

それを聞きつけた兼家は、熱心に求愛して結婚します。

兼家は当時の関白で、エリート中のエリート。

道綱母は望まれて妻となり、しかも玉の輿。

しかし、幸せな生活はいつまでも続きませんでした。

原因は夫である兼家の浮気です。

帰らない夫の帰りを待つ寂しさや怒りを、道綱母は『蜻蛉日記』に切々と書き記しています。

出産直後に浮気発覚!

道綱母は、息子の道綱を産んだ直後、兼家の浮気に気づきます。

その理由というのがなんとも切なく、兼家が文箱に女性宛ての手紙を置きっぱなしにしていたから。

しかも、相手の女性・町の小路の女は、自分よりも身分の低い相手。

道綱母のプライドを大きく傷つけたことでしょう。

 

当時の結婚というのは、現代の結婚とはまったく違いました。

現代では役所に婚姻届けを提出すればいいわけですが、当時の結婚とは“男性が女性の家に三日間続けて通う”ことで成立しました。

兼家は三日続けて、道綱母の家には帰ってきませんでした。

 

道綱母は自分の家の召使いに、兼家を尾行させます。

すると、兼家が「町の小路の女のところへ行った」と報告がきます。

それから二日、三日ほど経って、道綱母は門が叩かれる音を聞きます。

兼家がやってきたのですが、道綱母は門を開けませんでした。

兼家はどうしたか?

町の小路の女のところへ行ってしまいました。

このまま黙っていることはできない!と思った道綱母は、“うつろひ菊”の文付枝を送るのです。

“うつろひ菊”の文付枝

嘆きつつ一人寝る夜のあくる間は

いかに久しきものとかは知る

道綱母は、この歌を“うつろひ菊”に付けて兼家に届けます。

『嘆きながら一人で夜が明けるのを待つ時間。それがどんなに長くて辛いのか、あなたに分かりますか。いいえ、分からないでしょうね』という意味です。

この歌だけでも、道綱母の気持ちはよく伝わりますが、彼女はこれを“うつろひ菊”――色の変わった菊に付けました。

満開を過ぎ、紫がかった色へ“うつろう”菊の花を。

しかし、この切々とした嘆きは兼家には伝わらず、なんとこれを機に彼は堂々と相手の家へと通うようになるのです。

 

この歌は後に藤原定家によって、百人一首に選ばれました。

切実な思いが込められているからこそ、人の心を打つのではないでしょうか。