「死損ねの左之助」。新選組、原田左之助の生存説とは??

新撰組

<出典:ブクログ通信

はじめに

新選組の十番隊組長・原田左之助は、伊予松山藩にいた頃に武士と口論になり、「腹を切る作法も知らぬゲス野郎」と罵られ、本当に腹を切ってしまった為、腹部に一文字の傷跡が残っていました。

切腹傷を見せながら腹を切ったエピソードを自慢げに話すので、新選組隊士の間では「死の損ねの左之助」というあだ名がついたほどで、しまいには自らの家紋を「丸に一つ引き」にしてしまいました。

新選組では隊内随一の槍の名手として知られた原田左之助でしたが、戊辰戦争時には永倉新八と靖共隊を結成するも、彰義隊に加わり上野戦争に参戦して命を落としました。

しかし、明治後半から大正時代にかけて、すでに地元の愛媛では、密やかに原田左之助生存説がささやかれていたのです。

地元新聞社まで巻き込んだ、スケールの大きい原田左之助生存説に迫ります。

原田左之助のプロフィール

1840年。

伊予松山藩の下級武士の家に生まれた原田左之助は、武家奉公人(中間)として働いていました。

文武に優れていた左之助は藩校明教館で学ぶことが許されましたが、短気な性格のせいで武士と口論になり、切腹騒動を起こして伊予松山藩から出て行きました。

しばらくの間、伊予松山藩で身につけた槍術だけで道場を渡り歩いていましたが、江戸で近藤勇の食客になると、そのまま新選組の初期メンバーとなりました。

 

副長助勤に就任し、組織の再編成時には十番隊組長に昇格している原田左之助の新選組での活躍は目覚ましいものでした。

新選組設立当初、筆頭局長であった芹沢鴨一派の暗殺に加わり、新選組に潜り込んでいた長州のスパイを屯所内で斬り伏せ、池田屋事件での追討、蛤御門の変では長州藩士を六人倒し、三条大橋制札事件に関係し、油小路事件でも壮絶な斬り合いを制し・・・。

原田左之助は新選組の主だった戦闘にはすべて参加していると言えます。

 

戊辰戦争時には土方歳三の副官というようなポジションで立ち回りましたが、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに惨敗した後、近藤勇や土方歳三と意見が合わず、原田左之助は永倉新八とともに靖共隊を結成して会津へ向かうことにしました。

しかし会津へ移動中、原田左之助は突然、ひとり江戸へ引き返しました。

その理由は、現在も明らかになっていません。

江戸に戻った原田左之助は、彰義隊に加わり、上野戦争を戦いましたが、銃弾を受けた2日後、28歳で亡くなりました。

地元では公の事実だったらしい生存説

1907年(明治40年)に松山(愛媛県)に現れた原田左之助が、親戚を訪ねて回り、「満州(モンゴル)で馬賊の頭目になっていて、日清・日露戦争では日本軍のために後方から支援した」と言い、弟には多くの金品を与えて満州へと戻っていったといわれています。

また、大正12年の地元新聞に「阪本龍馬を刺した 松山藩士原田佐之助」という見出しで掲載されています。(愛媛県立図書館

ちなみに当時は坂本龍馬を暗殺した実行犯と認識されていた原田左之助ですが、現在ではほぼ否定されています。

ただ、原田左之助の訪問を受けた親戚は、坂本龍馬暗殺の実行犯と誤解していたため、ずいぶんとよそよそしい態度をとってしまったといいます。

 

原田左之助の訪問から20年たって新聞に掲載されたのは、松山を訪れていた新聞記者が偶然に取材したことがきっかけと言われています。

死に損ねの左之助のあだ名にふさわしい生存説。

現在でもその真偽のほどは定かではありませんが、馬賊の頭目としてモンゴルの草原を馬に跨って駆け抜ける原田左之助の姿を想像すると、なんとも様になっているものではないでしょうか。




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