茶人・千利休は、なぜ武士のように切腹したのか?

<出典:wikipedia

1522年に和泉国・堺の商家の子として生まれた田中与四郎。

彼こそのちに信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった茶聖・千利休です。

しかし、彼は天下人・豊臣秀吉の逆鱗に触れ、切腹して果てました。

茶人のはずの千利休が、なぜ武士の死に方である切腹で命を終えなければならなかったのでしょうか。

千利休とは

商家の跡取りとして教養を身に付けるために茶の道に入った千利休。

茶の湯に「侘び」を求めた武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、師の教えをさらに進めて侘び茶を大成させた人物です。

今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)とともに茶頭(さどう/茶の湯の師匠)として信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉に仕えました。

北野大茶湯(おおちゃのゆ)を総合演出したのも利休でした。

※北野大茶湯
秀吉が身分に関係なく参加を許した北野天満宮での史上最大の茶会

秀吉に相反する利休

秀吉が愛したのは「黄金の茶室」。

利休が理想とするのは素朴な草庵。

「政治の道具」・「権力の象徴」に利用する秀吉と、「簡素な芸術」としての茶の湯を求める利休とでは相容れなくなっていきます。

また、秀吉は貿易の利益独占のために、利休の出身地である堺に重税などの負担をかけてしまいます。

この出来事で、堺の権益を守りたい利休は秀吉に嫌気がさしてしまいます。

さらに1590年。

利休の愛弟子・山上宗二が秀吉に無残にも処刑されるショッキングな事件もありました。

二人の対立は深まっていきました。

千利休切腹命令へ

1591年2月23日。

利休は秀吉に堺での謹慎を命じられます。

原因は、利休が京都大徳寺の桜門を彼の私費で修復し、そのお礼に寺が門の上に利休像を置いたこと。

秀吉がくぐる大徳寺の山門の上から雪駄履きの利休の木像が見下ろすとは無礼極まりないというのが理由でした。

ただ、この理由は利休を陥れるこじつけかもしれません。

利休には、秀吉にうとまれる理由がいくつもあったのです。

・安価の茶器類を茶人の立場を利用して高額で売り渡した
・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢(ちょうずばち)や庭石などに使った
・利休の娘を妻にと願う秀吉に「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否した
・高麗文化を尊び、秀吉の朝鮮出征に反対した

しかも、利休蟄居命令のひと月前には、利休を重用し、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没しており、利休は最大の後ろ盾をなくしていました。

千利休の切腹

一説には、秀吉は利休が謝罪さえすれば死罪にするつもりはなかったといいます。

しかし、利休は謝罪に応じず、死罪を受け入れました。

前田利家や古田織部、細川忠興ら大名である利休の弟子たちによる助命運動もかないませんでした。

京都に呼び戻された利休は、利休の首を持って帰るための秀吉の使者に最後の茶をたて、聚楽屋敷内で切腹したのです。

死後、首は一条戻橋で罪の一因ともされる大徳寺桜門の利休像に踏まれるような形でさらされました。(享年70)

 

利休の切腹の際、上杉景勝の軍勢が厳重に屋敷を取り囲みました。

利休の弟子である大名たちが、利休奪還を図る恐れがあったからです。

つまり、彼の影響力は大名を動かすほど大きかったということ。

だからこそ、千利休の最期は茶人の立場を超え、一人の武将のように切腹させられたのでしょう。