「母を捨てよ」で15年間の人質生活!前田まつ

<出典:wikipedia

加賀百万石の大大名となった前田利家。

その影には妻・まつの支えがありました。

前田家が滅亡の危機にさらされたときも、まつは、それを救いました。

前田まつとはいったいどのような女性だったのでしょうか?

前田利家との結婚

4歳で父を亡くしたまつは、母の妹が嫁いだ前田家で育てられました。

このまつの母の妹というのが、利家の母親。

つまり、まつの夫・利家は、まつの従兄弟でもありました。

そして12歳で、まつは9歳年上の利家と結婚しました。

“かぶき者”のための陣羽織!

利家は、いわゆる“かぶき者”でした。

かぶき者とは、常識破りの派手な格好、行動をする人のことです。

利家も派手な格好を好んでしていました。

 

そんな夫のために、裁縫が得意だったまつは陣羽織を作ります。

布を贅沢に使い、丈は地面に触れそうな長さ。

そして、背中に大きく鍾馗(中国の疫病を払う神)を刺繍しました。

この陣羽織を見て、秀吉は「うらやましい」と言ったそうです。

かぶき者の利家のために、派手で立派な陣羽織を作ったまつ。

派手好きで知られる秀吉が羨ましがるほどの品ですから、利家も大満足だったでしょう。

 

ちなみに現在、この陣羽織(刺繍菊鍾馗図陣羽織)は、国の重要文化財に指定されています。

まつの裁縫、刺繍の腕前がどれほど素晴らしかったのか分かりますね。

覚悟の一言「母を捨てよ」

秀吉が亡くなった翌年(1599年)に、利家は62歳で亡くなりました。

まつはこれをきっかけに出家し、芳春院となります。

しかし、利家の死はまつの出家だけでなく、前田家の滅亡の危機をも招きました。

 

利家が亡くなると、徳川家康が加賀征討を行おうとします。

その理由は、利家の跡を継いだ息子・利長に「家康を暗殺しようとしている」という噂がある、というものでした。

利長は家康と戦おうと思いますが、それをまつは止めます。

そして家康側に使者を送り、「謀叛の気持ちなどない」と弁明するように言いました。

さらに、まつ自身が人質になろうと言うのです。

これにはもちろん大反対を受けますが、利長は最終的に頷きます。

 

1600年5月。

これから江戸に向かう時に、まつは利長に言いました。

「私のことは見殺しになさい」と。

まつには、前田家のために尽くすという熱い思いがありました。

「武士は家のことを一番に考えなければいけません。
ですから、母のことを思って家を潰してはいけません。
家の存続こそが大事なことなのです。
ですから、いざという時には私のことは捨てなさい」

それからまつは、15年もの長い年月を、人質として江戸で過ごしました。

 

やっと解放された時には、まつは68歳になっていました。

この時には、もう息子の利長も亡くなっています。

そしてそれから三年後、まつも71歳でその生涯を終えました。