武士必見!! 切腹の作法教えます。

<出典:wikipedia

「ハラキリ」として海外でも有名な切腹のこと。

武士にのみ許された名誉の死に方で、武士以外の罪人は、斬首やはりつけ、絞首刑となったのです。

それゆえ切腹は、ただ腹を切るだけではなく、複雑な作法に則って行う神聖な儀式となっていました。

切腹が名誉の死となったのは

日本史上最初の切腹は意外と古く、平安時代末期を起源とするそうです。

ただし、そのころはまだ作法もなく、「名誉ある死」とも考えられていませんでした。

近世に入るまでは、あくまで自決の一手段としてのハラキリだったのです。

 

切腹に名誉の死の意味が付加されたきっかけは、戦国時代、豊臣秀吉が備中高松城を水攻めしたときのこと。

1582年、秀吉は本能寺の変での織田信長の死を知って、戦いを中止して畿内へ戻るために敵の毛利方と和睦をします。

その時、備中高松城主・清水宗治(むねはる)が和睦と引き替えに責任を取り、水上に船を出してその場で腹を切って介錯人に首をはねられたのです。

この潔さに秀吉をはじめとする武将たちが大いに感銘を受け、これ以降、切腹が「名誉の死」とされるようになりました。




切腹のしきたり

江戸時代になると、以下のような切腹の作法が確立してきます。

① 切腹人は、遺体を洗う時の要領で水にお湯を足して温度調節した湯で沐浴。
② 髪を高く結い、髷(まげ)を逆さに下に折る。白無地の小袖と浅黄色の裃を左前(死者の着物の着方と同じ)で身に付ける。
③ 切腹する場所に逆さに返した畳二畳をT字に敷き、北面して座す。湯漬けなどで最後の食事をする。酒盃二杯を四度で飲み干す。
④ 柄を外し紙に巻かれた短刀が、三方に載せられて切腹人に差し出される。
⑤ 介錯人は切腹人に名乗り一礼。背後に回ると刀を水で清め、八双(正面より右へ寄せ、切っ先を天に向ける構え)に構える。
⑥ 切腹人は、検視役に黙礼し、右から肌脱ぎになる。左手で刀を取り、右手を添えて頂き、刀の峰を左に向けて右手に持ち替える。左手で腹を押すように撫でると、短刀を左腹に突き立て、右へ引き回すと同時に介錯人が首の皮一枚残して斬る。
⑦ 屏風で遺体を隠し、検視役が首を確認して終了。

首を切り落とさないのは、首と身体を分けるのは親不孝だという儒教思想の影響とも、首が飛んで土に汚れるのを防ぐためとも言われます。斬り落とす場合もありました。

ちなみに、血の色が目立つため、浅葱色の裃(かみしも)や敷物が使われました。白装束ではありません。

切腹の名称

腹の切り方や呼び方にもいくつか種類があります。

「十字腹」は戦国時代に多い、腹を左から右へ切ってから短刀を抜き、みぞおちへ再度突き立てて臍の下まで切り下げる方法。それでも息があれば喉を突いて絶命したそうですが、苦痛の多い方法です。

「扇子腹」は、江戸中期ごろから行われた切腹人の苦痛軽減と複雑な作法を知らない武士のための方法。
短刀の代わりに扇を三方に置き、切腹人がそれに手をかける瞬間に介錯人が首を斬りました。

また、死んだ主君の後を追う切腹を「追腹(おいばら)」、責任や義理を通すための切腹を「詰腹(つめばら)」、本意でない無念の切腹を「無念腹(むねんばら)」と呼びました。

切腹のむずかしさ

戦国時代末から江戸初期までに多かった介錯人なしの切腹は、かなりつらいものでした。

その場合、ある程度刀を刺したところで、短刀を喉に持っていき、頸動脈を掻き切ったそうです。

江戸中期からの切腹は、むしろ介錯人の腕前に頼り、かなりの達人でなければ切腹人を苦しませずに首を切り落とせませんでした。

建前上は「名誉」である切腹でしたが、実際は、切腹する者も介錯する者も残された人々にとっても、つらいことには変わりありませんでした。