太平洋戦争の名将|中川州男

中川州男

<出典:wikipedia

中川州男 なかがわくにお

(1898年~1944年)

 

1898年。

中川州男は熊本県で誕生。

1918年に陸軍士官学校を卒業後、盧溝橋事件に歩兵79連隊大隊長として参加します。

その後、連隊長から推薦を受け、40歳を過ぎてから陸軍大学へ行きました。

1943年。

歩兵第2連隊長に就任。

パラオ諸島ペリリュー島へ赴任することになり、ペリリュー島にてアメリカ軍と激戦を繰り広げ戦死しました。

 

日本統治下にあったパラオ共和国

大小200余りの島からなる太平洋上のパラオ共和国は、もともとドイツ領でした。

しかし、日本は第一次世界大戦で勝利し、パラオを統治することとなります。

 

日本統治下に入ったパラオは、急速に近代化していきます。

道路や電線が整備され、サトウキビやパイナップルの栽培が盛んに!!

マグロの缶詰工場や鰹節工場を稼働し、安定した雇用が誕生!!

学校や病院などの施設建設!!

そのため、パラオの現地人と日本人の関係は非常に良好でした。

 

1941年。

太平洋戦争が起きます。

最初は優勢だった戦争も、次第に劣勢となり苦境に陥り始めます。

1944年6月

パラオ諸島北方のサイパン島がアメリカ軍の手に落ち、さらにマリアナ沖海戦で日本海軍は大打撃を受けてしまいます。

こうして、パラオが標的となるのは時間の問題となりました。

中川州男の非凡な作戦

1944年3月。

中川州男はペリリュー島への赴任を命じられます。

このとき中川は生きて帰れないことを自覚しており、妻から赴任先を聞かれると「永劫演習さ」と答えます。

 

ペリリュー島は南北に9km、東西に3kmと、とても小さな島。

この島に上陸した中川は、まず島中を歩き回り地形や地質を把握します。

島の周りにはサンゴ礁。

島の地質はコンクリートのような石灰岩質。

この2つに目をつけた中川は、島全体に洞窟を作り、城塞にする作戦を編み出します。

 

それまで日本軍は敵の上陸と同時に迎撃する「水際作戦」を重要視していました。

しかし、物量で勝るアメリカを正面から叩くことは、ほぼ不可能。

そこで、地形を最大限に生かし持久戦を採用したのです。

 

作戦は決まった!!

しかし、トンネル掘削作業はとても困難なものでした。

赤道直下の太陽は兵の体力を奪い、強固な岩盤はノミを1日で潰してしまう。

兵の手のひらからは血が噴き出し、過酷な作業が続きます。

5ヵ月後。

ようやく洞窟が完成。

ペリリュー島は要塞と化しました。

 

忘れられた戦場!ペリリューの戦い!!

のちにアメリカ軍から「忘れられた戦場」と呼ばれた「ペリリューの戦い」

アメリカ軍にとって、隠したくなるほど不名誉で甚大な被害を出した戦いが始まります。

 

1944年9月12日。

アメリカ軍はペリリュー島に砲撃を開始。

ウィリアム・リュパータス少将は
「こんな小さな島は3日もあれば片付く」
と考えていました。

それもそのはず。

第1海兵団はアメリカ軍最強といわれるほどの部隊だったのです。

 

砲撃は3日間に及び、撃ち込まれた砲弾は17万発

島のジャングルは焼き払われ、島自体の形を変えるほどでした。

 

9月15日。

ペリリュー島にアメリカ軍が上陸。

ウィリアム少将は、「砲撃で無力化したペリリュー島は難なく占拠できる」と考えていました。

しかし、思わぬ反撃を受けて大混乱に陥ります。

要塞の出現!日本軍のゲリラ作戦!!

中川州男の作った要塞はビクともしていませんでした。

アメリカ軍が上陸を開始すると、日本軍はすぐさま反撃を開始。

西海岸の浜辺はアメリカ兵たちの血で真っ赤に染まります。

 

しかし、圧倒的な物量差は埋められません。

日本軍はアメリカ軍に上陸を許してしまいます。

これを想定していた中川州男は次の作戦を開始。

ペリリュー島にできたアメリカ軍陣地を、夜中に襲います。

右手に刀。

左手に手りゅう弾。

日本兵は決死の覚悟で突進しました。

 

アメリカ軍は日本兵の突撃に恐怖。

多くの兵が精神に異常をきたしていきます。

 

当初3日で片付くと考えられていたペリリュー島の戦いでしたが、中川州男の作戦により2ヶ月半にわたる戦闘が繰り広げられます。

それでも圧倒的な物量差は埋められず・・・。

日本軍は次第に追い詰められていきます。

そして11月24日。

万策尽きた中川は、日本に「サクラサクラ」の電報を送り玉砕しました。

 

ペリリュー島でのアメリカ軍の戦死者は1794名。

負傷者は8010名。

生き残った兵も多くも心的外傷後ストレス障害に苦しみました。

被害の大きさと過酷さから、「ペリリュー島の戦い」はアメリカ軍にとって不名誉なものとなり、あまり語られない「忘れられた戦場」となったのです。

 

1994年。

ペリリュー神社に石碑が設置されました。

そこには、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツが寄せた詩文が刻まれています。

「諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い玉砕したかを伝えられよ」

 

民間人と一緒に戦えない!! 中川州男の意志!!

ペリリュー島に洞窟を作り、要塞を作っていた日本軍。

そこに友好関係を築いていた現地人が現れ、「一緒に戦いたい」と志願してきます。

しかし、これを聞いた中川州男は一喝!

「我ら帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!!」

こう言って、現地の人達に島を去るように命じます。

驚いた現地人は日本人の冷淡さに落胆し、パラオ本島へ向かう船へと乗り込みました。

 

現地人を乗せた船が出発。

海上を進みます。

すると、ペリリュー島から大きな声が聞こえてきます。

振り返ると、海岸には日本兵がびっしりと並び、手を振っていたのです。

その中には中川州男の姿もありました。

 

中川州男にはサイパン島の悲劇が刻まれていました。

サイパンでは避難できずに残った多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、1万人以上の民間人が亡くなっていたのです。

「この悲劇を2度と繰り返してはいけない!」

そう考えていた中川は、現地の人達を戦地から遠ざけたのです。

こうして、ペリリュー島では民間人の犠牲を一人も出さずに戦闘を終えました。