坂本龍馬の盟友「中岡慎太郎」!最期のときは龍馬とともに奮闘!

<出典:wikipedia

はじめに

日本史上、もっとも人気のある人物の一人である坂本龍馬。

龍馬は維新直前の時期に、潜伏していた宿を急襲されて悲劇的な最期を遂げるのはよく知られていますが、この時に龍馬と運命をともにした男がいました。

それが中岡慎太郎。

今回は中岡慎太郎の、壮絶な生き様についてお伝えします。

中岡慎太郎とは

中岡慎太郎は1838年(天保9年)、土佐国安芸郡北川郷の大庄屋、中岡家の長子として生を受けました。

「庄屋」とは“農”にあたる身分の人たちですが、苗字帯刀を許されて農民をまとめ、武士との間を取りもつ階層を意味しています。

土佐ではこの庄屋たちの気概が強く、国を統括していくためにはなくてはならない人材であったといいます。

庄屋たちをさらに統括する大庄屋として、つまりリーダーとしての教育を生まれながらに施されてきた慎太郎は16歳のとき、後の土佐勤皇党主となる「武市瑞山」の剣術道場に入門します。

 

慎太郎が23歳の頃。

武市が結成した土佐勤皇党に加盟。

志士としての活動を開始します。

長州藩士らとのパイプをもつようになった慎太郎は、土佐藩内で攘夷運動への大弾圧が起こると脱藩、長州藩に身を寄せますがそこでリーダーとしての資質を開花させます。

そして長州藩での政治活動を本格的に行うようになり、「蛤御門の変」や「下関戦争」に参戦します。

単純な攘夷から雄藩連合による新政府樹立という目標を掲げ、世に名高い「薩長同盟」の締結に向けて奔走するようになります。

その過程で坂本龍馬とタッグを組み、維新への潮流を加速させていきました。

中岡慎太郎は弁舌爽やかで芯の通った人物だったと評されており、早い段階からロシアの南下政策を予想し警鐘を鳴らすなど、卓見をもった論客でもありました。

瀕死の状態で近江屋事件の顛末を語り継いだ

「龍馬暗殺」とは1867年(慶応3年)の「近江屋事件」を指していますが、その経緯が詳しく伝えられているのは、慎太郎が死の直前にそれを語ったためです。

龍馬は刺客の太刀を浴びて間もなく死亡し、同様に襲撃を受けた慎太郎はその後二日間息があり、部下の田中光顕に龍馬の最期を伝えたのです。

遭難時、慎太郎は複数の刺客に襲われたものの短刀一本で応戦、全身十数か所を斬られながらもなお生き延びたのです。

その壮絶な最期は、彼の不屈の闘志と維新回天への強靭な意志を感じさせるものでした。