死の香りたつ平安京の名所 一条戻橋

<出典:wikipedia

昔から橋は現世と来世の境界線として考えられてきました。

それは、能の舞台において怨霊が舞台へ現れる通路のことを「橋がかり」と呼ぶことからも窺えます。

京都に今でも存在する、『一条戻橋』。

一条戻橋は、平安京が造営された794年から架橋されて、その後何度も作り直されながら現在も当時と同じ場所に残っています。

一条戻橋

平安京が造営された時代。

一条戻橋は、都の外れ。北限を東西に走る一条大路にある堀川を渡る橋でした。

平安中期には、この橋を渡って堀川の西へいくと、そこは衰退の著しいエリアで、人家も少なく、湿地帯の広がる荒れた右京。

ちょっと不気味な場所で、当時の人には異界のような雰囲気を漂わせていました。

実際、戻橋は葬送の地へ遺体を運ぶ時に渡る橋だったため、この戻橋を渡ることは特殊な意味があり、それが一条戻橋に死の香りたつ伝説や歴史的事実を生み出してきました。




一条戻橋の歴史・伝承

【その一】三好清行の葬列と戻橋の名の由来

918年。

文章博士(もんじょうはかせ/大学で詩文・歴史を享受した教官)で参議だった三善清行(みよしのきよゆき)の葬列が一条戻橋を渡ったとき。

父親の死の知らせを聞いて飛んで帰った熊野の修験者・浄蔵(じょうぞう)は、棺にすがってその死を嘆きます。

すると、突然の雷鳴とともに清行が一時的に生き返り、父子は抱き合って再会を喜ぶことができました。

それ以来、「土御門橋(つちみかどばし)」と呼ばれていたこの橋は、死者がこの世に戻ってくる「戻橋」と呼ばれるようになりました。

これは作者不詳の説話集『撰集抄』に残るお話。

【その二】安倍晴明の式神

平安時代きっての凄腕陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)は、式神と呼ばれる鬼神を操るのが得意でした。

しかし、妻が屋敷に置いていた式神の顔を怖がるため、普段は屋敷の近所にある戻橋の下に隠し、必要な時だけ召還していたといいます。

【その三】安徳天皇の運命を告げた橋占い

戻橋は橋占いの名所でした。

橋占いとは、橋のたもとに立って、通行人の言葉を神の言葉として信じたものです。

『源平盛衰記』によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院が出産する際に、彼女の母親である二位殿(にいどの)がこの橋で占いをすると、12人の童子(実は安倍晴明が橋の下に隠した式神)が現れ、生まれる子供の将来を暗示する歌を歌いながら橋を渡りました。

二位殿の弟である平時忠(ときただ)は、その歌から皇子(後の安徳天皇)が生まれることを予想。

しかし、平氏が源氏に敗れて壇ノ浦へ消える運命にあることまでは読み解けませんでした。

建礼門院の産んだ安徳天皇は、わずか満6歳で二位殿と共に壇ノ浦へ沈みました。

【その四】鬼女が徘徊する橋

『平家物語』は、源頼光の四天王筆頭と呼ばれた渡辺綱(わたなべのつな)の話を伝えています。

渡辺綱が夜中に戻橋のたもとで美女に頼まれるまま馬に乗せ、家まで送ってやろうとしたとき。

水面に映った影で女が鬼だと悟ります。

鬼は綱の髪を掴んで愛宕山の方角へ飛びます。

しかし、頼光が名刀「髭切の太刀」で鬼女の片腕を切り落とし、逃げ切ることができました。

【その五】晒される死の歴史

戦国時代には、三好長慶(ながよし)の家臣である和田新五郎が細川晴元によってここで鋸引きに、また安土桃山時代には、豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首(きょうしゅ/さらし首)にされました。
(ただし、千利休のさらし首は、聚楽大橋だったとも言われています)

1597年には、秀吉が出したバテレン追放令のために捕縛された日本26聖人と呼ばれるキリスト教の殉教者たちがここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎まで徒歩で向かわされました。

おわりに

このように、一条戻橋はどの時代においても、異界やあの世に通じる不気味な場所であり、刑場でした。

今でも、「出戻りにならないように」と嫁入り前の女性や婚礼の行列は橋に近づかない風習があるそうです。

逆に、太平洋戦争中、戦地に赴く兵士とその家族はこの橋で「戻れるように」と密かに願をかけたと言われています。